新しい場所で

2004年にニューヨークに渡ったのは、「ドキュメンタリーフォトグラファーとして大きく羽ばたきたい!」という気持ちからだった。大学卒業後、20代前半にケニアで暮らして写真家を目指し、帰国後は昼間働き夜は写真学校に通いながらドキュメンタリー作品を撮っていた。卒業後も会社の理解を得て、そのままのライフスタイルで撮影の日々。その作品たちを評価して頂き、文化庁の新進芸術家海外留学制度で1年間のニューヨークへの切符を手に入れた時は、月へのロケット発射台に乗ったような高揚感だった。

18年間のニューヨーク生活は最高に大好きで楽しかったけど、プライベートではしんどいことも色々あった。独身の頃に作品へと純粋に向かっていた気持ちは少しずつ分散していき、次第に生活のための写真を撮る以外の心のスペースがなくなっていった。振り返るといろんな思いが交錯するけど、酸いも甘いも全部自分が選んできたこと。たくさんのしあわせと悲しみ、そのすべてが人生を耕してくれた。

今、土佐町で2回目の春が来て、自分の中に懐かしい変化が起こっている。

「この家族のドキュメンタリーを撮りたい!」

自分の内側から湧き起こる情熱、生きる喜びの根源のようなもの。そんな情熱がよみがえった今、感謝と喜びに溢れている。予定調和ではない人生の自由を泳いでいくのが私には合ってる。そんな心持ちでいると、どんどん予定不調和な面白いことがやってきて、ああ、だから私は安心してただ自分でいればいいんだなぁと大きなものに身を委ねるような気持ち。再びそんな思いになれたことが嬉しいし、今が嬉しいことで過去の意味も書きかわって新しく受けとめ直せるような、そんな浄化と再スタートの春。

さて、どんな家族かというのは、これから写真で伝えていきたいし写真集にする気でいるけど、ちょっとだけご紹介すると、

土佐町の山奥、ガスも水道も通っていない築100年の家で、山の上からホースで水を引いて薪でお湯を沸かし、自然に寄り添い、自然にいだかれて暮らす子ども5人、猫2匹、ニワトリたくさん、その他生き物の気配がうごめいてる大家族、渡貫さんち。

しっかりと自分に軸を持った人の生命力、お金では手に入らない根源的な喜びを見いだす力、生み出す力。多分それらは私たちが日常の中で少しずつ手放してしまっているものだから、より愛おしく感じるのかもしれないし、私はそんな彼らの「生き物としての力」に惹かれている。手間がかかることは悪いことじゃない。手間と愛は比例するのかもしれない。彼らをみてるとそう思う。これから四季折々この家族に寄り添って写真を撮っていく。この撮影を通して「生きる」ってことをまっすぐに見つめる時間を私も一緒に味わっていきたい。

3月24日の夕暮れに


16歳だったこの日、28人の同級生と先生が修学旅行の列車事故で亡くなって長い年月が経つ。

この日に高知にいるのは数十年ぶりで、毎年集まろうと呼びかけてくれている同級生と一緒に小雨の中、桜の木の下で集まった。景色が変わったのか記憶が薄れたのか、まるで知らない場所に迷い込んだみたいだった。

私は高校を卒業して以来ずっと県外。高知を離れて長い年月が経つ私と、ずっとこの日を高知で迎えてきた同級生とでは具体的な関わり方が全然違うことを実感した。缶ビールとおつまみを持って集まったことが大人っぽくて、16歳の自分から長い年月が経ったことを感じた。この事故から、地元の同級生たちがそれぞれにどんな時間を過ごしてきたのかを聞けて心に残るひと時だった。

高知在住の友だちの1人は、毎年この日は高知県下のいろんな場所にあるクラスメートのお墓参りをしながら「自分が生き残って申し訳ない」「生かしてもらってありがとう」と手を合わせて過ごしているのだという。数分の偶然で生き延びた自分は、おまけの人生を生かさせてもらってる、と。

「申し訳ない。ありがとう。おまけの人生。」

この言葉たちにとてもリアリティがあって、私の死生観も16歳の出来事からスタートしていると再認識した。

毎日いろんな偶然が重なって、今を生かさせてもらってる。

その偶然のありがたさ、そしてはかなさに時々胸がぎゅっとなる。

毎朝ちゃんと目が覚めて、太陽の光を浴びれること。ご飯が美味しいこと。笑顔を交わしあえる人がいること。全てが当たり前ではなくて、本当に毎日毎日偶然の積み重ねで、今ここにいる。

越えなきゃいけなかったり、解決しなきゃいけなかったり、うまくいかなかったり、もういやだ〜と投げ出したくなったり、生きてたら色々あるにせよ、今ここに生きていられることの尊さは全てを凌駕する。

その上で、いつも何かあるたびに、「私の人生が悪く設計されてるはずはないから、これも最終的にはいいとこに着地するわ」というイメージでいる。

大変な時ほどそう思う。だから基本的には全部大丈夫。

奇跡で生きながらえてるこの命を、生きてる間にちょっとでもいい形、好きな形にしよう。20代の頃に鮮明にそう思ってたことを、今またあらためて意識している。偶然にも同じ時代に生きて縁がある人たちと、ちょっとでも楽しくあたたかな光を交わしながら。

「自分の命を生かさせてもらったなぁ」と微笑みながら、いつか旅立とう。

今年もまた桜を見ることが出来た。

生きてるおかげで、見させてもらえた。

みんなそれぞれに生きたい人生があったはずだから「みんなの分も生きるね」とは言えないけど、まだしばらくはこっちにいさせてもらうね。ありがとう。

開く

先日、高知の飲み屋で意気投合した同世代の写真家が主催する写真展にゲスト出展することになった。何を出展しようかと、久々に自分のポートフォリオを開いたら、その写真たちを撮った当時のことを思い出した。

20年くらい前、東京での仕事を一区切りし3ヶ月過ごしたニューヨーク。それまでずっとアフリカやアジアのマイナーな場所が好きだった私にとって初めての北米。いろんな人種が混ざったエネルギッシュな街にすぐ魅了され、人を撮りたくてずっとカメラを持ち歩いていた。

初めての道を歩きながら、一瞬の出会いを写真にする。一瞬の間に顔を合わせ、相手に受容してもらってシャッターを切る。「写真撮ってもいい?」という会話は多くの場合邪魔になるからそういった会話はほとんどなしで、写真を撮ることによって交差したお互いの人生の時間に喜びが生まれるようなやり方を求めていた。

見知らぬ相手にカメラを向けるのは、勇気がいる。拒絶されるかもしれないと思うと、つい尻込んで素通りしたくなったりもする。でもこちらに迷いやためらいがあると相手はほぼ受け入れてくれない。だから写真を撮りたい自分の方が自分を開いていくしかない。

日々ニューヨークの路上で写真を撮りながら、「私、開いてます」という状態でいる訓練をした。自分をさらして何が起こるかわからないポジションに身を置くのは簡単ではない。こたつで寝転がってみかん食べてたほうが全然いい。でも多分私は人と命を交わし合う瞬間を味わいたくて写真を始めたし、それが出来てる時には自分が喜びのアドレナリンで満たされるのを感じた。

自分が開いてる時とそうでない時では、相手の反応や撮れる写真がまるで違った。

「自分が開いた状態は相手に見えるし伝染するんだ!」

今なら人の中に見えるものは物理的なものだけではないというのがわかるけど、その当時の私にとって、それはヘレンケラーが「water!」といった瞬間を思い出すような驚きだった。この頃に無条件で自分を開く訓練をしたことは、写真だけではなくその後の自分の人生を助けてくれている。

「開く」って抽象的で伝え方が難しいけれど、多分自分が開いてる時は、恐れや迷いやその他もろもろを捨てて、自分も相手もありのままでジャッジしませんという状態なんだと思う。そうするとその状態をキャッチしてくれた相手も、そのままを見せてくれる。

私にとって写真を撮るということは、最初に自分から両手を開くこと。誰だって受け入れられたいし愛のエネルギーに触れたい。人の命と繋がりたい。「開く」というのは、そのための在り方。大人になったらいろんな気持ちが邪魔して少しづつ難しくなるかもしれないけど、それは筋力と同じで、勇気を出して鍛えればどんな人にもまた備わると思う。命そのままで触れ合える、そんな世界を生きていきたい。